History Nibha Nobhadol


ソムデット・プラチャオバロマオントー・チャオファーニパーナパドン・ウィモンプラパワディー・クロムクンウートーンケーッカッティヤナーリー の歴史


ソムデット・プラチャオバロマオントー・チャオファーニパーナパドン・ウィモンプラパワディー・クロムクンウートーンケーッカッティヤナーリー

歴史

ソムデット・プラチャオバロマオントー・チャオファーニパーナパドン・ウィモンプラパワディー・クロムクンウートーンケーッカッティヤナーリー様はタイの仏歴2429年(西暦1886年)12月4日に、54番目の姫様、そして、プラバッソムデット・プラチョムカーオチャオユーフア様の4番目の奥様の姫様として誕生されました。母上様のお名前は、プラウィマダトー・クロムプラスッターシニナッ・ピヤマハラチャパディワラダー・ソムデットプラバロムラーチャノカナッ様(略してインノーイ様)でした。


王宮の中では、“ソムデット・インプラオンノーイ様”もしくは、“ソムデット・インノーイ様”(小さな王女と言う意味)と呼ばれました。ご兄弟としては、お兄様とお姉様がいらっしゃいました。

   1. ソムデット・プラチャオバロムワントー・チャオファーユコーンティカムポーン・コムマルワン・ロッブリーラーメーッ
   2. ソムデット・プラチャオバロムワントー・チャオファーナパーチョーンチャムラップスリー
   3. ソムデット・プラチャオバロムワントー・チャオファーマリニーナパダーラーシリニパーパンナワッディー・クロムクンスリーサッチャナライスラカンヤー
   4. ソムデット・プラチャオバロムワントー・チャオファーニパーナパドン・ウィモンプラパワディー・クロムクンウートーンケーッカッティヤナーリー

    誕生された際はプラオンチャオ・ニパーナパドンの称をお持ちでしたが、2431年(西暦1888年)にプラチャオルーットー・チャオファーニパーナパドンの称を受けることができました。

 2441年には、髪を全部剃り、ソムデット・プラチャオルーットー・チャオファーニパーナパドン・ウィモンプラパワディーの称を受けることになりました。

 ラマ6世の時である、2453年(西暦1910年)10月23日にソムデット・プラチャオノンナーントーの称を受けました。そして、2468年(西暦1925年)11月11日には、ソムデット・プラチャオノンナーントー・チャオファーニパーナパドン・ウィモンプラパワディー・クロムクンウートーンケーッカッティヤナーリーの称を受けることになりました。

2439年(西暦1953年)の写真

プラウィマダトー・クロムプラスッターシニナッソとソムデット・インプラオンノーイ様

出典:国家記録院


2446年(西暦1903年)の写真

2439年(西暦1896年)の写真

左から-プラウィマダトー・クロムプラスッターシニナッ、ソムデット・チャオファー・クロムクンスリーサッチャナライスラカンヤー様、ソムデット・チャオファー・クロムマルワン・ロッブリーラーメーッ様、ソムデット・チャオファー・クロムクンウートーンケーッカッティヤナーリー様

出典:国家記録院


出典:国家記録院


出典:国家記録院


出典:国家記録院


2446年(西暦1903年)の写真

左から‐ プラウィマダトー・クロムプラスッターシニナッ

ソムデット・チャオファー・クロムクンスリーサッチャナライスラカンヤー様、ソムデット・チャオファー・クロムマルワン・ロッブリーラーメーッ様、ソムデット・チャオファー・クロムクンウートーンケーッカッティヤナーリー様

出典:国家記録院


2446年(西暦1903年)の写真

後列‐ソムデット・チャオファー・クロムマルワン・ロッブリーラーメーッ様、ソムデット・チャオファー・クロムクンサワンカローッラッサナワディー様

前列‐ソムデット・チャオファー・クロムクンウートーンケーッカッティヤナーリー・プラウィマダトー・クロムパスッターシリナーッ様、ソムデット・チャオファー・クロムマクーンスリーサッチャナライスラッカンヤー様、ソムデット・チャオファー・クロムマクーンピーチッジェーチャン

 出典:国家記録院


2448年(西暦1905年)の写真

階段の前列から ‐ チャオチョーム・マーンダージーン・ラダワン様、プラウィマダトー・クロムプラスッターシニナッ様、ソムデット・チャオファー・クロムクンサワンカローッラッサナワディー様、ソムデット・チャオファー・クロムクンスリーサッチャナライスラカンヤー様、ソムデット・チャオファー・クロムクンウートーンケーッカッティヤナーリー様

出典:国家記録院


ソムデット・チャオファー・クロムクンウートーンケーッカッティヤナーリー様

出典:国家記録院


ソムデット・チャオファー・クロムクンウートーンケーッカッティヤナーリー様

出典:国家記録院



   2475年(西暦1932年)、絶対君主制が幕を閉じた後、ソムデット・チャオファー・クロムクンウートーンケーッカッティヤナーリー様は居所をスワンスナンター宮からソンクラー州にある宮殿へ移されました。しかし、新政府はソムデット・チャオファー・クロムクンウートーンケーッカッティヤナーリー様のことを悪く思っていた上、海外からもよくない話が流れていたため、ソムデット・チャオファー・クロムクンウートーンケーッカッティヤナーリー様はソムデット・チャオファー・クロムパナコンサワンウォーラピニッ様とインドネシアのバンドゥンにあるダハーバディー宮に行かれました。そして、前からの持病により、2478年(西暦1935年)1月29日に亡くなられました。

亡くなられる前に、ご自身の死を予感していたソムデット・チャオファー・クロムクンウートーンケーッカッティヤナーリー様は、プラチャオ・バロムワントー・プラオンチャオ・メワディー様にご自身の遺体を箱に入れ、素朴な葬式を開いてくれるように伝えました。

クロムプラナコンサワン・ウォラーピニッ様は、ソムデット・チャオファー・クロムクンウートーンケーッカッティヤナーリー様の遺体の頭を持ち、プラチャオ・バロムワントー・プラオンチャオ・メワディー様は遺体の腰を持ち、そして他のお手伝いさんたちは遺体の足を持ち、プラチャオバロムワントー・クロムマルワン・ティッパヤラッタナキリックリニー様の指導の下で、遺体を御墓へと運びました。それから、タイの新政府がソムデット・チャオファー・クロムクンウートーンケーッカッティヤナーリー様の遺体をタイへ移すことを許可するまで1か月がかかりました。許可が降りてからは、バッタウィヤー市から船を使い、シンガポールへ運び、シンガポールからはバンコクまで汽車を使い運びました。



性格について

ソムデット・チャオファー・クロムクンウートーンケーッカッティヤナーリー様は、とても優しく、家族を含め皆様から愛されました。常に王宮の職員と新しい方法を受け入れながら仕事をし、勤倹節約される方でした。何か怒った際は、大きな声で怒鳴るのではなく、じっと見つめていたため、ソムデット・チャオファー・クロムクンウートーンケーッカッティヤナーリー様が怒った際は、王宮の皆が怖がりました。


スワンスナンター宮でお泊りになる際は、食事の後は、居間で休まれました。時々、キムを弾かれました。午後に時間が空いた際は、欧米人の英語の先生から英語を学ばれました。夕方は、オンヘン様(プラチャオバロムワントー・プラオンチャオメワディー様)と自転車に乗られました。


サデット・プラオンヤワパー様(プラチャオバロマオントー・プラオンチャオ・ヤワパーポンサニッ様)とサデット・プラオンアートン(プラチャオバロムワントー・プラオンチャオ・アートンティパヤニパー様)は、時々テニスをされましたが、後からはチラダー公園でゴルフをされました。たまには、夜に知人の方々をご自宅に招待し、お好みの映画を観られる時もありました。

2475年(西暦1932年)からは、ダハパディーに行かれ、平民と同じ暮らしを送られましたが、朝食は、いつもお部屋で召し上がりました。水曜日は、よくお家の前に座ってゆっくり過ごされ、たまにお家を通る人がお金を要求すると寄付することもありました。そして、たまにはご自身でお買い物をしに行かれる時もありました。最後に、外国へ行かれる際は、ご親戚の方がいらっしゃいました。


2446年(西暦1903年)の写真

サンサムラーン宮: 皇族と写真

出典:国家記録院


2469年(西暦1926年)の写真

プラウィマダトー・クロムプラスッターシニナッとプラウィマダトー・クロムプラスッターシニナッ

出典:国家記録院


2470年(西暦1927年)の写真

マルッカターイワン宮: 皇族と写真

出典:国家記録院


ソムデット・チャオファー・クロムクンウートーンケーッカッティヤナーリー様

出典:国家記録院


お得意なこと

ソムデット・プラバロムチャノッカナーッ様は、ソムデット・チャオファー・クロムクンウートーンケーッカッティヤナーリー様ことをご自分の娘のように愛されました。ソムデット・チャオファー・クロムクンウートーンケーッカッティヤナーリー様は、幼いころからお勉強が得意で、仕事や学業において、とても優れた能力を発揮され、王宮の長官まで上られました。そして、ご自身を愛してくださった、ソムデット・プラバロムチャノッカナーッ様がお亡くなりになるまで、お世話されました。

プラバッソムデット・プラチョムカーオチャオユーフア様(ラマ4世)が2450年(西暦1907年)に海外へ行かれた際、ソムデット・チャオファー・クロムクンウートーンケーッカッティヤナーリー様もご同行されました。その時、ソムデット・チャオファー・クロムクンウートーンケーッカッティヤナーリー様を恋しがった長官や王宮の方々は、ソムデット・チャオファー・クロムクンウートーンケーッカッティヤナーリー様に合計43通の手紙を送られました。そして、“プララチャニポンカーイバーン”という本を作り、ソムデット・チャオファー・クロムクンウートーンケーッカッティヤナーリー様に送った人もいました。

その本の中には、ソムデット・チャオファー・クロムクンウートーンケーッカッティヤナーリー様がプラバッソムデット・プラチョムカーオチャオユーフア様(ラマ4世)をどれほど愛され、どれほど思っていらっしゃるのかについて書かれていました。

“父親は子どもにとても会いたく、この本を書いた。子どもに会いたく、インノーイにDeuelopment of the European Nationsという本を読んでもらった(父親が今読んでいたため)。横になって聞いているとともて平穏な気持ちになるのである(本当に寝ていたため)。誰も読んでくれる人がいなくて寂しく、子どもに会いたい”

そして、長官たちが、昔の国の話をしてくれた時

“この昔の国は、父親は子どもたちが皆知っていると思っていた。何故なら、シェークスピアの本を読んだことがあったかれである。これは、とても面白く、ダハーに行ったように感じさせてくれる本であった。シンハッサーリー国とカーランティチャワー国に関する本を知らない人も多い”

ソムデット・チャオファー・クロムクンウートーンケーッカッティヤナーリー様は、お勉強がとても好きで、スナンター宮の中に学校を建てられました。

その学校の名前は、ニパーカンで、ソムデット・チャオファー・クロムクンウートーンケーッカッティヤナーリー様は、ご親戚や王宮の職員たちに、ここで勉強するようにしました。また、先生は、外国人の教師とタイ人の教師を採用しました。学費はただで、食事や筆記用具も提供されました。卒業してからは、サイパンヤーで試験を受けることができるようにしました。サイパンヤー校に合格したら、賞も与えました。

ソムデット・チャオファー・クロムクンウートーンケーッカッティヤナーリー様は、この学校をとても大事に扱い、様々な面倒を見られたため、王室では、この学校を正式な学校として認めました。その時、プラオンターニー長官(プラバロムオントー・プラオンチャオ・タニニワッコンムーンピッタヤラーパープッティヤコーン様)が、学校運営を手伝ってくださいました。

しかし、2475年(西暦1932年)絶対君主制が崩壊されることで、残念ながら学校の様々な計画も中断されました。

ソムデット・チャオファー・クロムクンウートーンケーッカッティヤナーリー様とソムデット・チャオファー・クロムクンスリーサッチャナライスラカンヤー様は、ご一緒に、テープシリン校の創立28年を記念に、ヤオマーンウティッという建物を建ててあげました。更に、ソムデット・パーテープ・シリンタラバロムラシニー様は、テープシリンタラワーッ寺院に、仏教教育を拡げると共に、プラバッソムデット・プラチョムカーオチャオユーフア様(ラマ4世)とご自身のご健康を祈るため、ニッパーナパドンという建物を建てました。

参考文献

チャオチョムモーム・ラチャーオンサダップ・ラチャカーンティ5。この本はチャオチョムモーム・ラチャーオンサダップ・ラチャカーンティ5様のお葬式の日に作られました。チャオチョムモーム・ラチャーオンサダップ・ラチャカーンティ5様のお葬式は、2526年(西暦1983年)12月24日にワッテープシリンタラワーッのルワンナーパパプパーイッサリヤーポーンで行われました。


著作権:文化芸術センター スアンスナンター・ラーチャパット大学